哲学を研究した人物は、西洋では 三大悪妻の一人とされているクサンティッペによって偉大な哲学者になったとも言われているソクラテス 心身の厳格な区別を説き心身合一の次元を認識しつつも、その問題を解明できなかったルネ・デカルトやら ちなみに、このデカルトの哲学は、 「 部分 」を分解して分解して、とことんまで分解していって分析していこうという要素還元主義という 「 観 」を醸成していきました。 こういった要素還元主義の哲学( 人の見つめ方 )が人間というものを心と身体という二つに分けて 別々に追求して考えていく「 鋳型 」になり 心を置き去りにして、すべてを物質に戻して( 還元して )とらえようとする機械論的生命体として観る「 源 」になってしまったようにも思います。 この考え方は科学の発展に多大な貢献をしましたが 一方で 「 部分 」には強いですが「 全体 」に考えが及ばず 「 部分 」と「 部分 」との相互関係とか、「 部分 」と「 全体 」とのつながりに弱く 例えば 病を治療するときに、心を除外して、肉体だけを取り扱うという科学的方法が発展していき 現代医学は、行きづまり に喘いでいる観があります。 ( 余談でした。) その他にも 理性の限界を指摘し経験論とは別にプラトン流のイデア論を近代的化し 時間に正確で彼の散歩の姿を見て近所に住む隣人は時計の狂いを直したと言われるほど規則正しい生活をし かつ寝入りばなを丹念に扱っていたとされるイマヌエル・カントやらニーチェなどが有名ですよね。 環境がよくないからあたしゃ不幸だよ? カント・・デカルト・・天風哲学 純粋実践批判 でもチラッと記事を書きましたけど。 で ほとんどの方は「 哲学 」といえばギリシア哲学を源とする西洋哲学だけしか連想できないかもしれませんが 東洋の、仏教を興した釈迦、儒教の礎となった孔子、あるいは老子なども「 哲学者 」として括ることも出来ます。 「 哲学 」というのは、平たく言えば「 ものの見方・考え方 」「 人としてのあり方 」を学ぶためのものです。 「 哲学 」をもうちょっと語るならば 「 人間というものをどう見つめるか? 」「 人間は強いものなのか?弱いものなのか? 」 「 わたし( 我 )とは何ものなのか? 」 「 世界や宇宙をどう見つめるか? 」(1) 「 人生をどうとらえるのか? 」(2) といった根本的な問題やら 「 幸福とは? 」(3)とか 「 正義とは? 」とか 「 善とは? 」とか 「 心とは? 」(4)とか 「 時間とは何か? 」とかいったことを深める学問ということも出来るでしょう。 あなたも3ヶ月に一回くらいはこういったことについて深く内省し 思索に耽ってもいいかもしれません。( 笑 ) ( ※(1)から(4)について、天風哲人が、どうとらえていたかについては、下記に引用しながら解説しています。あくまで私の解釈での見解ですが・・。 ) さて この哲学というのは、上述したように ものの見つめ方という「 心のあり方 」を扱っている部分がありますので 意外に厄介です。 だって「 見つめ方 」なんて百人百様で、全く同じものはないと私は思っていますから。 人によって、「 ものの見つめ方 」、「 とらえ方 」は十人十色であり 同じ出来事でも、百人百様の解釈、感想があります。 ですので 哲学というものは、 自分自身で「 答え 」を探し出して、作り出していかないと、見つからないものだと私は思っています。 ただ一方で 聖賢たちの「 ものの見方・考え方 」「 人としてのあり方 」というのは、「 思い方 」のモデル ( 標準 )になります。 また 優れた哲学は人々の心を魅了してしまいます。 で 哲学とか心のことを書くと すぐに狐憑( きつねつ )きみたいな宗教じゃないか? とかいう不安を感じる方もいらっしゃるようです。 確かに 天風という方がその人生経験から編み出した 「 哲学( 思い方・とらえ方 ) 」も立派に宗教( 言い換えれば天風教 )になってもおかしくないくらい 「 こころのあり方 」についても深められた教義が「 存在 」すると私は観ています。 以下も参考になるかもしれません。 天風哲人は、述書のなかで
嬉しいことは嬉しいけれども いったい何を聴いて学んでいたんだろう・・全然教えがわかっていない・・とがっかりすると漏らしていたようで その一方で
( 思わず )頬ずりして抱きしめてあげたくなるとおっしゃっています。 どっちもいいですが 確かに、後者のほうが、カッコイイですよね。 つまり、何があっても心を乱すことのない泰然自若な強く明るい心を身体の使い方とともに一つにして 練り上げることが天風哲学の真髄のひとつとして定義されています。 これは、聴く人が聴いたらおわかりのように ( 宗教で言うところの )立派な悟りの境涯です。 ですから 「 天風教 」としてもいいのですが・・「 天風教 」という宗教法人にはなりませんでした。 財団法人になっています。 それは、天風という方が 「 この教義を宗教としてはならない 」と口を酸っぱくして言い続けてきたからだと( 出典不明ですがどこかで )聞いたことがあります。 天風という方の世界観( 宇宙観 )(1)は 「 宇宙霊といい( 宗教的には )神仏といわれるものと自分は( 自分が不平不満や憎んだりそねんだりして離れない限り )一体であって私を守りたまう力であり敬い感謝するものである。 助けてくださいなどという祈りになってはならない。 念願 我のためならず 他人の喜びをわが喜びとする(3)ことが本当の霊性満足を目標とする生活態度である。 本当に頼りになるのは自分だけだ。」ということを自覚的に信念化することを説いています。 宗教と「 天風哲学 」の違いという点では 宗教は「 示 」というのが「心、こころ」を意味するように心のほうからのみに偏って見つめる傾向にあります。 しかし、天風という方が編み出した哲学( 人間の見つめ方、生命の活かし方 )は前述のように 「 一方からのみ見てはいけない。心身は、うって一丸として一つにして生かされなくてはならない。 そのための方法として、心を弱く暗く消極的にするようなことは、心に入れない科学的で実践的な方法を取り入れて生命を活かせ!」と説いています。 また、 「人生に対する見つめ方・とらえ方 」(2)については、こうも言っています 「多く言うまでも無く、人生は、どこまでいっても現実の世界なんだから。 それを忘れちゃいけないんだよ。 死んでから後が人生じゃないんだから。 死んでから後のことまで考えようとするのは宗教なんだ。 天風哲学は死んだ後のことなんか考えやしないもん。・・・・ (中略)・・・現在ただいま生きているこの人生というものを考えていくということが私の主義であり、主張であるんだから。 ( 2 )」として 一方からのみ見ることをせず心身を両側面から統合的に観て総合的にアプローチして練磨していきつつ 「 只今生かされている現実 」をいかに喜び、楽しみ情味豊かな境涯に生きるかを中心課題にしている点が宗教と違う点と言えるかもしれません。 それに 哲学とか書くと重く、暗い、難解で観念的といったイメージがつきまといます。 しかし 天風という方の哲学は ( 私が実践してみた体験上 ) 実践的で具体的で明るくて勢いがあり「 頭 」だけで考えるものではないです。 何度も繰り返しますが 天風哲学と 西洋哲学との根本的な差は「 頭 」だけで考える「 頭 」でこねくり回した抽象的な概念ではありません。 「 頭 」だけで考える「 哲学 」は、人を幸せにしにくいものです。 天風哲学は「 頭 」だけで考える・・人を幸せにしにくい 「 How to Sayの哲学 」ではなく、 「 How to Do の哲学 」です。 もうちょっとくだけた表現では 天風という方が編み出した心身統一法及び天風哲学は 学べば学ぶほど、重くなって、暗くなって、わけがわからなくなって弱くなって迷うようになる哲学ではなく 熱心に実践して学べば学ぶほど、軽くなって楽しくなって強くなっていく わかって腑に落ちていく( 高尚なんだけれども庶民的な )「 哲学 」であり「 方法論 」と言えるかもしれません。 How to Do の哲学というのはどういう意味かをもうちょっと噛み砕くなら 誰だって、本心では 感謝に溢れて、元氣と勇氣と思いやりを持って誠実に・・ 明るく朗らかに 生きがいのある人生を生きたい( Aの生き方・あり方・思い方 ) 生きたくない人はいない だけれども なぜか 人は 恐れたり、憎んだり、そねんだり不平不満で心を充満させたり すぐに氣落ちしたり むやみやたらに怒ったり、悲嘆にくれたり絶望したり、自暴自棄になったりする 挙句健康や運命を損ねてしまう( Zの生き方・あり方・思い方 ) 聖賢たちは、自分自身は立派に思って素晴らしい思い方・見つめ方・あり方が出来たので そう思いなさい!立派に思いなさい!明るくしなさい!愛を持って接しなさい! と教え諭すことは出来ましたが どうして、Zのように思いたくないのに、そう思ってしまうのか?という原因や いったいどうしたら( How to )( Zの生き方やあり方、思い方 )からAのような立派な思い方や考え方になるのか?生きがいある のどかで滔々とした豊かな人生に暮らすことが出来るのか?という 方法を体系的に解き明かしてはくれませんでした。 そういった方法を誰でも出来る簡単で具体的な方法として解明したところに凄みがあります。 ( 個人的見解 ) ※ 天風哲人は 「 死んでから後が人生じゃないんだから。 死んでから後のことまで考えようとするのは宗教なんだ。 天風哲学は死んだ後のことなんか考えやしないもん。・・・・ (中略)・・・現在ただいま生きているこの人生というものを考えていくということが私の主義であり、主張であるんだから。」 ( 2 ) ということで「 死んでから後のこと 」には、ほぼ言及していません。 こういった領域は 知らないほうがいいことも( 事実として )ありますが、そういう分野に渇きのある方は 生命哲学書のひとつである「 生命の實相 」 携帯版 第9巻及び第10巻を( 図書館等で借りる等して )お読みになったらよいかと思います。 相当に丹念・・慎重に文献を選んで、こういった分野を掘り下げています。 いくら栄耀栄華を極めても、この世を去るとき、物質的な物は何一つ持っていけないというのもまたひとつの観察された事実なので・・・。 そういう点では ( 私は別に「 生命の実相 」の関係団体の信者ではないですが生命の実相も機会があったら一読の価値はあると思っています。 ( ※携帯版ですと40巻ありますので・・手始めに読むのでしたら7巻が読みやすいはずです ) |
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