中村天風師 略年譜 |
西暦 |
年齢 |
主な出来事( 活動 ) |
1876 |
0 |
7月30日、東京府豊島郡王子村( 現 東京都北区王子 )にて、大蔵省紙幣寮の抄紙部長、中村祐興と母テウの三男として生まれる、本名は、中村三郎。( 幼少の名前は三午 )
母テウは江戸生まれの明朗快活な女性であったという。
父の祐興は旧柳川藩主の立花家に生まれ中村家に養子となっており、三郎( 中村天風 )は、初代の柳川藩主 立花鑑徳( たちばな あきのり )伯爵の孫にあたる。
この祖父は三郎に「 真剣の勝負は腕前じゃない。いざというときは度胸ぞ! 」と三日月型の額の刀傷を見せながら毎晩・毎晩いやになるくらい言い聞かしていた。
当時、王子にあった大蔵省の紙幣寮の官舎に印刷技師として来日していた英国人夫妻にかわいがられ、日常のなかで英会話を身につけることができた。
三郎が英語に堪能であったことはここから始まるが、これが後に彼の人生に大きな影響を与えることになる。 |
1889 |
13 |
東京本郷の小学校を卒業。
三郎は手のつけられぬ暴れん坊で喧嘩などは日常茶飯事であり喧嘩で相手に鼻血を出させるくらいは朝飯前で、時には指をへし折ったりするほどの凶暴さだったという。
これでは将来が危ぶまれるということで、小学校を卒業すると、父祐興の郷里の知人宅に預けられ、九州 福岡の屈指の名門校
修猷館( 現修猷館高校)に入学させられる。 |
1892 |
16 |
知人宅に預けられても相変わらずの乱暴者で、九州の中学校だけの連合柔道試合の遺恨から殺傷事件をおこしてしまう。
といっても、柔道で三郎に負けた相手が試合後に三郎を呼び出し、集団( 11人 )で暴行したので、三郎はその後、相手を1人1人探しだし訪問して敵討ちをしていった。
そのリーダー格のところへ行ったときに、相手は出刃包丁を取り出し三郎に襲いかかった、しかし、弾みで自分自身を刺すこととなるのだが、当時の警察は、今と違いそんな卑怯な輩は、ということで三郎は正当防衛ということで無罪放免になったけれど、修猷館中学を退学処分となる。
手がつけられなくなっため、親族で農商務省次官をしていた男爵 前田 正名氏( 母テウの兄 )の紹介で頭山満翁の玄洋社に預けられる。
誰の言うことも聞かない激しい気性の三郎で「 玄洋社の豹 」と渾名されるほどであったが、頭山には心から心服し尊敬して、生涯、頭山を師と仰いだ。
頭山満翁の勧めもあり、陸軍中佐で軍事探偵の河野金吉氏の鞄持ちとして、日清戦争開戦前の錦州城、九連城の偵察、調査を行う。
約1年の偵察行動の間に中国語を修得する。
これも後に彼の人生に大きな影響を与えることになる。
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1894 |
18 |
学習院に入学するが、すぐに中退。
クラスメイトに岩崎久弥氏( 三菱財閥の3代目主宰者 岩崎弥太郎の長男 )がおり、以降竹馬の友として親しく交わる。
なんでも岩崎久弥男爵邸で500個のダイヤの指輪とかも見せてもらったらしい。
日清戦争が始まり、三郎は軍事探偵として戦争に参加するが、持ち前の剛胆さと機敏さで軍事探偵としてめざましい活躍をする。
その活躍を題材にして新国劇で上演されたり、小説「 鞍馬天狗 」のモデルになったりしている。
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1902 |
26 |
参謀本部諜報部員として採用され、特殊訓練を受けたのち旧満州に潜伏する。
日露戦争開戦前の情報収集と後方攪乱を工作する。
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1904 |
28 |
日露戦争勃発。軍事探偵として目覚ましい活躍をする。この間コザック騎兵に捕えられ銃殺寸前に投じられた手榴弾の爆発により吹き飛ばされ九死に一生を得る。
※誠、中村天風の命を銃殺刑から救ったものに、にわかには信じられないようなことの顛末(一人の可憐な少女の犠牲が絶体絶命の窮地を救ったこと )が詳述されている。
また、万里の長城で偵察中に狙撃され、飛び降りたはずみに意識不明の重傷を負う。
以来、その後遺症としてたびたび強度のめまいに襲われる。
さらに、爆傷により両眼に重度の視力障害を受ける。
右手の中指は神経切断のために曲がらなかったという。
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1905 |
29 |
戦争が終わり帰国する。
選抜された屈強な軍事探偵113名のうち帰還した者は、わずか9名に過ぎなかったという。
この頃、甲州財閥の当主で鉄道王 根津嘉一郎氏に乞われ、同氏が会長をつとめる大日本製粉(のちに日清製粉と合併)の経営にたずさわる。 |
1906 |
30 |
奔馬性肺結核発病、死に直面する。
奔馬性肺結核は馬が疾走するように速く病状が進む肺結核であり、不治の病とされていた。
当時、結核に関する最高権威といわれた北里柴三郎博士の治療を受けるが病は好転せず、医学、宗教、哲学、心理学の書を読みあさる。
※中村天風師 氣の哲学にも北里博士から40才まで生きられないと見放されたという逸話があります。
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1909 |
33 |
病のことや心の問題でこんがらがった糸みたいになってやるせない氣持ちになっていたときに竹馬の友の一人に紹介されたスウエッド・マーデン氏の著書
「 いかにして希望を達し得るか(How to get what you want?) 」に感銘する。
「 座して死を待つよりも 」と救いの道を求め、身分を偽り病身をおしてアメリカへ渡る。
しかし、スウエッド・マーデン氏に会うも得るものはなかった。
アメリカのニューヨークでは、モーション・モーティブという健康法をやったり、カーリントンという哲学者に会ったりしたけれども、失望させられる。
※天風師が読んで感動した書物は 「 成功の実現 」にはローラン・スウェッド・マーデンという記述がありますが、オリソン・スウェッド・マーデンの間違い?ではないかと推測されます。
オリソン・マーデンは現代の成功の哲学を顕した多くの人たちに影響を与え源流の一人になった方のようです。
コロンビア大学で( 李宗順という広東省の華僑の留学生の通訳兼代理受講をして)医学を修める。
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1911 |
35 |
更に人生を深く考え、真理を求めて教えを乞うために、哲学者、著名な識者を求めてヨーロッパへ渡る。
ロンドンに渡り、H.アデントン・ブリュース博士の講座
「 精神活動と神経系統」に参加する。
フランスに渡り、オぺラ女優のサラ・ベルナール女史の紹介で、リヨン大学のリンドラー博士に会い「 鏡による暗示法 」を教わる。
病状が悪化し
サラ女史の紹介でドイツに行き、世界一の哲学者とされていた
ハンス・ドリュース博士に会うも
「もしも人間が人間の心のコントロールを思うとおりにできれば、哲学も宗教もこの世には生まれはしない。
人間を考えるのにもっと楽に考えれるなら、宗教も哲学もいりはしない。 それをお前が氣がつかないで、どこかへ行ったら何か教えてくれる人がいるだろうなどと歩いていることは、海の魚を森のなかで捕まえようとするのと同じだ!
心というものは絶対に人間の自由にならないものだ!」と断言され絶望し 求める何かは得られず、死期の迫るを感じ、死ぬならば故郷でと思い、5月、マルセイユで乗船して帰国の途につく。
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ところが、スエズ運河が、イタリア砲艦の座礁により通行不能となり、フィリピン人の釜たきに薦められてピラミッドを見に行く氣になって向かったエジプトのカイロのホテルで、偶然?シンクロニシティ?でヨガ哲学の聖者カリアッパ師と邂逅する。
カリアッパ師に
「 とにかく、あなたは一番大事なことに氣づいていない。
あなたは、まだ死ぬ運命にない。
それさえわかれば、まだあなたは死なずにすむ。
あなたがまだ氣づいてないことを私が教えてあげよう。 」
「 これから私は国に帰るのだが、私と一緒についてこないかい。」
と言われ
カリアッパ師に導かれてヒマラヤ第三の高峰カンチェンジュンガ山麓のゴーグ村( ゴルケ村? )に入り、ヨーガ哲学の行の指導( 直接の薫陶 )を受ける。
二年数ヵ月の修行で悟入転生の新天地を拓く。
c)2006 Google, Image(c)2006 DigitalGlobe Image(c)2006 TerraMetrics,(c)2006
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中村天風悟入転生の地 ヒマラヤ山脈第三の高峰カンチェンジュンガ山麓を望む。
そうして
「 自分の健康はとても回復しないと思い込んでいた強い氣持ちが次第に薄れて
「 医学で治らないといったって、俺は治る! 治るとも! 」
という何か理屈なしに、簡単明瞭に思い込むように変わっていき・・
ただもう回復して、元氣で活動のできる状態だけを自分の心に絶え間なく描くように努めたところ
( 不治の病とされていた )本馬性肺結核を克服してしまう。
日本人にして初のヨガの直伝者となる。
カリアッパ師より帰国の許しを得る。 |
1913 |
37 |
帰国途上、上海に寄り、第二次辛亥革命に参加する。
劣勢の孫逸仙(孫文)を助け、最高政務顧問として北京の紫禁城に入るも、2ヶ月にして革命挫折。
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1916 |
40 |
帰国後、東京実業貯蔵銀行頭取をはじめ、いくつかの会社を経営、実業界で大いに活躍する。 |
1919 |
43 |
6月8日、突如感じるところあって、今までのいっさいの社会的地位、財産を放棄し、単身「統一哲医学会」を創設し、毎日、上野公園や日比谷公園で真に生きがいのある人生を生きる為の実践哲学( ただし、このときはまだ心身統一法を体系化出来ていない )についての大道説法を始める。
同年9月、検事長の向井巌氏に見いだされ、同氏の紹介で総理大臣、原敬氏に会う。
原氏をして「 この人は大道で講演させておく人ではない 」と言わしめる。
この頃、東郷平八郎(海軍元帥)、杉浦重剛(儒学者)、石川素童(鶴見総持寺禅師)、原敬(首相)をはじめ、政界・財界の有力者が次々に入会する。 |
1923 |
47 |
司法大臣横田千之助氏の懇請により、朝鮮京南鉄道の騒擾事件を鎮める。
これを機縁に朝鮮総督 斎藤実氏に知己をえ、同会朝鮮支部を設置する。 |
1924 |
48 |
山本英輔海軍大将(当時海軍大学校長、海軍少将)の紹介により小松侯爵(元北白川宮輝久王)入会。同侯の推挙により、東久適、北白川、竹田の三内親王殿下に数回にわたり進講。
この頃の受講者には、咢堂尾崎行雄氏(元法相)、後藤新平氏(内相、満鉄総裁)、浅野総一郎氏(浅野セメント創業者)等、錚々(そうそう)たる人物が名をつらねている。
同年十二月、大阪関西本部開設。
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1925 |
49 |
大阪放送局より「 病と病気 」をラジオ放送。
これは、同局放送開始後わずか8日目の記念に残る講演であった。(注、我が国で初めて東京愛宕山より仮ラジオ放送されたのは同年3月22目)
以来、京都をはじめ、名古屋、神戸、小樽に次々と支部を開設。
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1940 |
64 |
1月、「統一哲医学会」を「天風会」と改称
終戦にいたるまで活動を全国的に展開する。
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1945 |
69 |
特別強制疎開命令の下に本郷の邸宅と本部の建物が取り壊され茨城県布川町に疎開する。
( 終戦秘話 ) |
1946 |
70 |
虎の門ビルにて戦後初めての講習会が開かれる。
以降、焼跡各地に会場を求めながら、毎月講習会を実施
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1947 |
71 |
アイケルバーガー中将の要請によりGHQ(占領軍総司令部)幹部約250名を対象に、当時有楽町にあった毎日新聞ホールでヨガ哲学のレクチャーを3日間行う。
たまたま来日中で同席していたロックフェラー( 3世 )氏に非常な感動を与える。
以来、同氏より繰り返しアメリカに招聘されるが、「世界の平和の光は日本から」の信念によりこれに応じず。これ以降、再び活動を全国的に展開するようになる。
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1962 |
86 |
国から公益性を認められ、財団法人天風会となる。 |
1968 |
92 |
4月、護国寺内に天風会館落成。
8月、最後の講和となった夏期修練会に参加する。
12月1日、92歳 帰霊。
お墓は東京音羽護国寺内にある。
皇族、大臣、事業家、俳優をはじめ、直接薫陶を受けた者は10万人を数える(会員数はのべ100万人)という。 |
( 出典及び引用 )
成功の実現( 日本経営合理化協会 中村天風述 )p389〜p394
一部強調している。
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中村天風師の主な著書 |
何千冊も色んな啓発書を読んできた経験上の私のお奨めは 「 成功の実現 」他口述書でして
原著を、お読みになることを強くお薦めし続けていますが、中村天風関連本については、 Amazon なか見!検索を 上手く利用すると本によっては内容の一部を閲覧することが出来ますので、概要をお知りになりたい方にお奨めです。 ( 一例 、 他の方のレビュー )
天風哲人が直接書き下ろした書は、口述書以外では
「真人生の探究」「研心抄」「錬身抄」 (以上いずれも天風会刊)等があります。
財団法人天風会の本のお問い合わせはアマゾンや
〒112-0012 東京都文京区大塚 5-40-8 天風会館
TEL 03-3943-1601
FAX 03-3943-1604までなさってもよいかと思います。
ちなみに、現在では
中村天風 成功哲学三部作 も販売されています。
これは、「成功の実現」発刊20周年を記念して、天風哲人の代表著作である3冊
「成功の実現」「盛大な人生」「心に成功の炎を」をまとめた内容になっています。
この三部作には中村天風師講演録CDが特別付録としてついてくるのがマニアには堪らないところです。
天風師が、「 心身統一の根本義 」ということで「 心身を統一する生き方の重要性について 」
独特のべらんめー口調で語った内容( 約35分 )のものが本体付録として収録されています。
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